ハワイ・マレー沖海戦という映画の話

今回は日本初の本格的な特撮映画であるハワイ・マレー沖海戦という映画の話です。f:id:mgc1965y:20210515201219j:image

1942年に太平洋戦争開戦1周年記念に製作された映画であり、配給は社団法人映画配給社(初公開)再公開は東宝

監督は山本嘉次郎氏(1974年死去)

特撮はのちにウルトラマンゴジラを製作する日本特撮の父円谷英二氏(1970年死去)

この作品では円谷氏が得意とするミニチュア作成を生かし見事な真珠湾のセットを完成させました。

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このリアルさは、海軍報道部や朝香宮鳩彦王(1981年死去)を驚かせ戦艦大和でこの映画を見た宇垣纏(1945年死去)は日記に「良い出来」と記したくらいでした。

しかし、製作は時代的に困難を極め、海軍省が政策を命令したのに肝心の資料提供は「カツドウ屋は信用できん」として拒否されました。作中の艦は赤城とされていますが、見学は許されず、当時すでに旧式であった鳳翔しか見学が許されず、着艦装置は取材すら断られたとのちに山本氏や円谷氏が語っていたそうです。途方に暮れているとカメラマンのハリー三村こと三村明氏(1985年死去)がどこから入手したアメリカの雑誌ライフに載っていた空母を参考とし、数少ない写真提供から寸法を割り出し、円谷氏を筆頭とする美術スタッフにより製作されました。しかし、検閲の際にとある宮家の貴族議員から「アメリカの空母ではないか」大激怒し公開中止になりかけ、のちに山本氏と円谷氏は、「はらわたが煮え繰り返った」と語っていました。元はと言えば、資料提供を拒み仕方なくアメリカの艦船を参考にしたのです。また、プロパガンダの一環もあるため敵が一切抵抗をしないなもありますが、その出来からGHQですら、実写だと勘違いしたという伝説があります。これのせいで円谷氏は戦後GHQにより役職を追放されますが、1954年にゴジラを製作し大ヒットを生むなどします。プロパガンダの作品ではありますが、円谷氏の手を抜かないミニチュア製作は、多くの海軍関係者を驚かせ、ゴジラウルトラマンでもその情熱は尽きることなく続けて多くの若者たちに多大なる影響を与えた円谷氏が初めて担当した映画。是非とも一度見てはいかがでしょうか。今回はここまで。それではまた。